初代エランの開発コードネームはロータス26。初のロータス製GTカーとして作られた初代ロータス・エリートの後継車として設計された。ただしエリートの特色であったFRPモノコックボディは廃止(生産性の低さやこもり音などの問題があり、販売上オープンモデルの生産が必要であったため)。プレス鋼板を溶接して組み立てた強固なバックボーンシャシーに、FRPのボディを架装する方式を採用した。エンジンは英国フォード・コルチナのものがベースで、DOHC1500cc(シリーズ2以降は1600cc)。ロータス創業者コーリン・チャップマンが考案した独特な後輪独立サスペンションを備えていた。ロータス車の大半はバックボーンフレームを持つが、エランはその構造を最初に使った車である。
当初のモデル、通称シリーズ1(S1)はオープンボディのロードスターだけだった。。完成車で1,495ポンド(キットカーフォームで1,095ポンド)という低価格、DOHCエンジンによる高性能、ロータスならではの卓越した操縦性などでヒット作になる。エランの流麗なスタイリングは、1980年代末に登場したマツダ・ユーノス・ロードスターが手本にしたと言われている。
その後1965年にはS2に進化し、フィクストヘッドクーペ(FHC)モデルも登場。従来からのオープンはドロップヘッドクーペ(DHC)と称された。
1967年にはS3に発展。対候性改善のためDHCにウインドウサッシュが取り付けられた。この年には初の「ファミリーカーとして使えるロータス」という触れ込みで、2+2のエラン+2(プラスツー)も追加された。S3からは全車にパワーウインドウが装備されたが、ロータスによると「手動式より軽い」ためだという。
1969年にはS4に進化。1971年にはウエストラインでの上下塗り分けを特徴とした「エラン・スプリント」が登場するなど、安全対策や装備充実を中心とした発展を続けた。
1973年に2シーターモデルが生産終了。続いて「ロータス+2 S130」と改名されていた+2が1975年に生産終了。最終的な出荷台数は2+2も含めて18, 000台といわれている。
エランがデビューした当時の日本は、1963年に第1回日本グランプリが開催されるなどモータースポーツの勃興期だった。エランは当初は芙蓉貿易、後に東急商事の手で輸入され、浮谷東次郎、瀧進太郎、三保敬太郎らのレーシングドライバーの手により、60年代半ばのレースで活躍した。俳優の伊丹十三、作詞家の保富康午も当時エランのオーナーだった。
エランのバックボーンフレームは、トヨタ・2000GTのシャーシ設計にも大きな影響を与えたと言われる。
ウィキペディアより抜粋
■ Elan(シリーズ1)主要諸元 ■
全長×全幅×全高:3,683×1,422×1,149mm
ホイールベース:2,134mm
車両重量:635.5kg
エンジン種類:水冷直列4気筒DOHC
最高出力:100馬力/5,500回転
最大トルク:14.9kg-m/4,000回転
サスペンション形式 前:ダブルウィッシュボーン
サスペンション形式 後:ロワーウィッシュボーン+ストラット
ブレーキ 前/後:ディスク
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